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 六

 野だは大きらいだ。こんなやつは沢庵石をつけて海の底へ沈めちまう方が日本のためだ。赤シャツは声が気に食わない。あれは持ち前の声をわざと気取ってあんな優しいように見せてるんだろう。いくら気取ったって、あの面じゃ駄目だ。惚れるものがあったってマドンナぐらいなものだ。しかし教頭だけに野だよりむずかしいことを言う。うちへ帰って、あいつの申し条を考えてみると一応もっとものようでもある。判然としたことは言わないから、見当がつきかねるが、なんでも山嵐がよくないやつだから用心しろと言うのらしい。それならそうとはっきり断言するがいい。男らしくもない。そうして、そんな悪い教師なら、早く免職さしたらよかろう。教頭なんて文学士のくせに意気地のないもんだ。蔭口をきくのでさえ、公然と名前が言えないくらいな男だから、弱虫にきまつてる。弱虫は親切なものだから、あの赤シャツも女のような親切ものなんだろう。親切は親切、声は声だから、声が気に入らないって、親切を無にしちゃ筋が違う。それにしても世の中は不思議なものだ、虫の好かないやつが親切で、気の合った友達が悪漢だなんて、人をばかにしている。おおかた田舎だから万事東京のさかに行くんだろう。物騒な所だ。今に火事が氷って、石が豆腐になるかもしれない。しかし、あの山嵐が生徒を扇動するなんて、いたずらをしそうもないがな。一番人望のある教師だと言うから、やろうと思ったらたいていのことはできるかもしれないが、――第一そんな回りくどいことをしないでも、じかにおれを捕まえて喧嘩を吹きかけりゃ手数が省けるわけだ。おれが邪魔になるなら、実はこれこれだ、邪魔だから辞職してくれと言や、よさそうなもんだ。物は相談ずくでどうでもなる。向こうの言い条がもっともなら、明日にでも辞職してやる。ここばかり米ができるわけでもあるまい。どこの果てへ行ったって、のたれ死にはしないつもりだ。山嵐もよっぽど話せないやつだな。
 ここへ来た時第一番に氷水を奢ったのは山嵐だ。そんな裏表のあるやつから、氷水でも奢ってもらっちゃ、おれの顔にかかわる。おれはたった一杯しか飲まなかったから一銭五厘しか払わしちゃない。しかし一銭だろうが五厘だろうが、詐欺師の恩になっては、死ぬまで心持ちがよくない。あした学校へ行ったら、一銭五厘返しておこう。おれは清から三円借りている。その三円は五年経った今日までまだ返さない。返せないんじゃない、返さないんだ。清は今に返すだろうなどと、かりそめにもおれの懐中をあてにはしていない。おれも今に返そうなどと他人がましい義理立てはしないつもりだ。こっちがこんな心配をすればするほど清の心を疑ぐるようなもので、清の美しい心にけちをつけると同じことになる。返さないのは清を踏みつけるのじゃない、清をおれの片破れと思うからだ。清と山嵐とはもとより比べ物にならないが、たとい氷水だろうが、甘茶だろうが、他人から恵みを受けて、だまっているのは向こうをひとかどの人間と見立てて、その人間に対する厚意の所作だ。割前を出せばそれだけのことですむところを、心のうちでありがたいと恩に着るのは銭金で買える返礼じゃない。無位無官でも一人前の独立した人間だ。独立した人間が頭を下げるのは百万両より尊といお礼と思わなければならない。
 おれはこれでも山嵐に一銭五厘奮発させて、百万両より尊とい返礼をした気でいる。山嵐はありがたいと思ってしかるべきだ。それに裏へ回って卑劣な振舞いをするとはけしからん野郎だ。あした行って一銭五厘返してしまえば借りも貸しもない。そうしておいて喧嘩をしてやろう。
 おれはここまで考えたら、眠くなったからぐうぐう寝てしまった。あくる日は思うしさいがあるから、例刻より早ヤ目に出校して山嵐を待ち受けた。ところがなかなか出て来ない。うらなりが出て来る。漢学の先生が出て来る。野だが出て来る。しまいには赤シャツまで出て来たが山嵐の机の上は白墨が一本たてに寝ているだけで閑静なものだ。おれは、控所へはいるやいなや返そうと思って、うちを出る時から、湯銭のように手の平へ入れて一銭五厘、学校まで握ってきた。おれはあぶらっ手だから、開けて見ると一銭五厘が汗をかいている。汗をかいてる銭を返しちゃ、山嵐がなんとか言うだろうと思ったから、机の上へ置いてふうふう吹いてまた握った。ところへ赤シャツが来て昨日は失敬、迷惑でしたろうと言ったから、迷惑じゃありません、おかげで腹が減りましたと答えた。すると赤シャツは山嵐の机の上へひじをついて、あの盤台づらをおれの鼻の側面へ持って来たから、なにをするかと思ったら、君昨日帰りがけに船の中で話したことは、秘密にしてくれたまえ。まだ誰にも話しゃしますまいねと言った。女のような声を出すだけに心配性な男とみえる。話さないことはたしかである。しかしこれから話そうという心持ちで、既に一銭五厘手の平に用意しているぐらいだから、ここで赤シャツから口どめをされちゃ、ちと困る。赤シャツも赤シャツだ。山嵐と名をささないにしろ、あれほど推察のできる謎をかけておきながら、いまさらその謎を解いちゃ迷惑だとは教頭とも思えぬ無責任だ。元来ならおれが山嵐と戦争をはじめてしのぎを削ってるまん中へ出て堂々とおれの肩を持つべきだ。それでこそ一校の教頭で、赤シャツを着ている主意も立つというもんだ。
 おれは教頭に向かって、まだ誰にも話さないが、これから山嵐と談判するつもりだと言ったら、赤シャツは大いに狼狽して、君そんな無法なことをしちゃ困る。僕は堀田君のことについて、べつだん君に何も明言した覚えはないんだから――君がもしここで乱暴を働いてくれると、僕は非常に迷惑する。君は学校に騒動を起こすつもりで来たんじゃなかろうと妙に常識をはずれた質問をするから、あたりまえです、月給をもらったり、騒動を起こしたりしちゃ、学校の方でも困るでしょうと言った。すると赤シャツはそれじゃ昨日のことは君の参考だけにとめて、口外してくれるなと汗をかいて依頼に及ぶから、よろしい、僕も困るんだが、そんなにあなたが迷惑ならよしましょうと受け合った。君大丈夫かいと赤シャツは念を押した。どこまで女らしいんだか奥行がわからない。文学士なんて、みんなあんな連中ならつまらんものだ。辻褄の合わない、論理に欠けた注文をして恬然としている。しかもこのおれを疑ぐってる。はばかりながら男だ。受け合ったことを裏へ回って反古にするようなさもしい了見は持ってるもんか。
  ところへ両隣りの机の所有主も出校したんで、赤シャツはそうそう自分の席へ帰って
行った。赤シャツは歩き方から気取ってる。部屋の中を往来するのでも、音を立てないように靴の底をそっと落す。音を立てないであるくのが自慢になるもんだとは、この時からはじめて知った。泥棒の稽古じゃあるまいし、あたりまえにするがいい。やがて始業のらっぱがなった。山嵐はとうとう出てこない。仕方がないから、一銭五厘を机の上へ置いて教場へ出かけた。
授業の都合で一時間目は少しおくれて、控所へ帰ったら、ほかの教師はみんな机を控えて話をしている。山嵐もいつの間にか来ている。欠勤だと思ったら遅刻したんだ。おれの顔を見るやいなや今日は君のおかげで遅刻したんだ。罰金を出したまえと言った。おれは机の上にあった一銭五厘を出して、これをやるから取っておけ。せんだって通町で飲んだ氷水の代だと山嵐の前へ置くと、何を言ってるんだと笑いかけたが、おれが存外まじめでいるので、つまらない冗談をするなと銭をおれの机の上にはき返した。おや山嵐のくせにどこまでも奢る気だな。
「冗談じゃない本当だ。おれは君に氷水を奢られる因縁がないから、出すんだ。取らない法があるか」
「そんなに一銭五厘が気になるなら取ってもいいが、なぜ思い出したように、今時分返すんだ」
「今時分でも、いつ時分でも、返すんだ。奢られるのが、いやだから返すんだ」
山嵐は冷然とおれの顔を見てふんと言った。赤シャツの依頼がなければ、ここで山嵐の卑劣をあばいて大喧嘩をしてやるんだが、口外しないと受け合ったんだから動きがとれない。人がこんなにまっ赤になってるのにふんと言う理屈があるものか。
「氷水の代は受け取るから、下宿は出てくれ」
「一銭五厘受け取ればそれでいい。下宿を出ようが出まいがおれの勝手だ」
「ところが勝手でない、昨日、あすこの亭主が来て君に出てもらいたいと言うから、そのわけを聞いたら亭主の言うのはもっともだ。それでももう一応たしかめるつもりで今朝あすこへ寄って詳しい話を聞いてきたんだ」
おれには山嵐の言うことがなんの意味だかわからない。
「亭主が君に何を話したんだか、おれが知ってるもんか。そう自分だけできめたってしようがあるか。わけがあるなら、わけを話すが順だ。てんから亭主の言う方がもっともだなんて失敬千万なことを言うな」
「うん、そんなら言ってやろう。君は乱暴であの下宿でもてあまされているんだ。いくら下宿の女房だって、下女たあ違うぜ。足を出してふかせるなんて、いばりすぎるさ」
「おれが、いつ下宿の女房に足をふかせた」
「ふかせたかどうだかしらないが、とにかく向こうじゃ、君に困ってるんだ。下宿料の十円や十五円は懸物を一幅売りゃ、すぐ浮いてくるって言ってたぜ」
「きいたふうなことをぬかす野郎だ。そんなら、なぜ置いた」
「なぜ置いたか、僕は知らん、置くことは置いたんだが、いやになったんだから、出ろと言うんだろう。君出てやれ」
「あたりまえだ。いてくれと手を合わせたって、いるものか。いったいそんな言いがかりを言うような所へ周旋する君からしてが不埒だ」
「おれが不埒か、君がおとなしくないんだか、どっちかだろう」
山嵐もおれに劣らぬ癇癪持ちだから、負けぎらいな大きな声を出す。控所にいた連中は何事が始まったかと思って、みんな、おれと山嵐の方を見て、あごを長くしてぼんやりしている。おれは、別に恥ずかしいことをした覚えはないんだから、立ち上がりながら、部屋中一通り見まわしてやった。みんなが驚いてるなかに野だだけはおもしろそうに笑っていた。おれの大きな目が、貴様も喧嘩をするつもりかと言うけんまくで、野だの干瓢づらを射貫いた時に、野だは突然まじめな顔をして、大いにつつしんだ。少し怖かったとみえる。そのうちらっぱが鳴る。山嵐もおれも喧嘩を中止して教場へ出た。

 午後は、先夜おれに対して無礼を働いた寄宿生の処分法についての会議だ。会議というものは生れてはじめてだからとんと様子がわからないが、職員が寄って、たかって自分勝手な説をたてて、それを校長がいいかげんにまとめるのだろう。まとめるというのは黒白の決しかねる事柄について言うべき言葉だ。この場合のような、誰が見たって、不都合としか思われない事件に会議をするのは暇つぶしだ。誰がなんと解釈したって異説の出ようはずがない。こんな明白なのは即座に校長が処分してしまえばいいに。ずいぶん決断のないことだ。校長ってものが、これならば、何のことはない、煮え切らないぐずの異名だ。
 会議室は校長室の隣りにある細長い部屋で、平常は食堂の代理を勤める。黒い皮で張った椅子が二十脚ばかり、長いテーブルの周囲に並んでちょっと神田の西洋料理屋ぐらいな格だ。そのテーブルの端に校長が座って、校長の隣りに赤シャツが構える。あとは勝手次第に席に着くんだそうだが、体操の教師だけはいつも席末に謙遜するという話だ。おれは様子がわからないから、博物の教師と漢学の教師の間へはいり込んだ。向こうを見ると山嵐と野だが並んでいる。野だの顔はどう考えても劣等だ。喧嘩はしても山嵐の方がはるかに趣がある。おやじの葬式の時に小日向の養源寺の座敷にかかってた懸物はこの顔によく似ている。坊主に聞いてみたら韋駄天という怪物だそうだ。今日は怒ってるから、目をぐるぐる回しちゃ、時々おれの方を見る。そんなことでおどかされてたまるもんかと、おれも負けない気で、やっぱり目をぐりつかせて、山嵐をにらめてやった。おれの目はかっこうはよくないが、大きいことにおいてはたいていな人には負けない。あなたは目が大きいから役者になるときっと似合いますと清がよく言ったぐらいだ。
 もうたいていお揃でしょうかと校長が言うと、書記の川村というのが一つ二つと頭数を勘定してみる。一人足りない。一人不足ですがと考えていたが、これは足りないはずだ。唐茄子のうらなり君が来ていない。おれとうらなり君とはどういう宿世の因縁かしらないが、この人の顔を見て以来どうしても忘れられない。控所へくれば、すぐ、うらなり君が目につく、途中をあるいていても、うらなり先生の様子が心に浮かぶ。温泉へ行くと、うらなり君が時々蒼い顔をして湯壺のなかにふくれている。挨拶をするとへえと恐縮して頭を下げるから気の毒になる。学校へ出てうらなり君ほどおとなしい人はいない。滅多に笑ったこともないが、余計な口をきいたこともない。おれは君子という言葉を書物の上で知ってるが、これは字引にあるばかりで、生きてるものではないと思ってたが、うらなり君に会ってからはじめて、やっぱり正体のある文字だと感心したくらいだ。
 このくらい関係の深い人のことだから、会議室へはいるやいなや、うらなり君のいないのは、すぐ気がついた。実を言うと、この男の次へでも座ろうかと、ひそかに目標にしてきたくらいだ。校長はもうやがて見えるでしょうと、自分の前にある紫の袱紗包をほどいて、蒟蒻版のようなものを読んでいる。赤シャツは琥珀のパイプを絹ハンケチで磨きはじめた。この男はこれが道楽である。赤シャツ相当のところだろう。ほかの連中は隣り同志でなんだかささやき合っている。手持ち無沙汰なのは鉛筆の尻についている、ゴムの頭でテーブルの上へしきりに何か書いている。野だは時々山嵐に話しかけるが、山嵐はいっこう応じない。ただうんとかああと言うばかりで、時々怖い目をして、おれの方を見る。おれも負けずににらめ返す。
 ところへ待ちかねた、うらなり君が気の毒そうにはいって来て少々用事がありまして、遅刻いたしましたと慇懃に狸に挨拶をした。では会議を開きますと狸はまず書記の川村君に蒟蒻版を配付させる。見ると最初が処分の件、次が生徒取締りの件、その他二、三ヵ条である。狸は例のとおりもったいぶって、教育の生霊という見えでこんな意味のことを述べた。「学校の職員や生徒に過失のあるのは、みんな自分の寡徳のいたすところで、何か事件がある度に、自分はよくこれで校長が勤まるとひそかに慚愧の念に堪えんが、不幸にして今回もまたかかる騒動を引き起こしたのは、深く諸君に向かって謝罪しなければならん。しかしひとたび起こった以上は仕方がない、どうにか処分をせんければならん、事実は既に諸君の御承知のとおりであるからして、善後策について腹蔵のないことを参考のためにお述べください」
 おれは校長の言葉を聞いて、なるほど校長だの狸だのと言うものは、えらいことを言うもんだと感心した。こう校長がなにもかも責任を受けて、自分の咎だとか、不徳だとか言うぐらいなら、生徒を処分するのは、やめにして、自分から先へ免職になったら、よさそうなもんだ。そうすればこんな面倒な会議なんぞを開く必要もなくなるわけだ。第一常識から言ってもわかってる。おれがおとなしく宿直をする。生徒が乱暴をする。わるいのは校長でもなけりゃ、おれでもない、生徒だけにきまってる。もし山嵐が扇動したとすれば、生徒と山嵐を退治ればそれでたくさんだ。人の尻を自分で背負い込んで、おれの尻だ、おれの尻だと吹き散らかすやつが、どこの国にあるもんか、狸でなくっちゃできる芸当じゃない。彼はこんな条理にかなわない議論を吐いて、得意気に一同を見回した。ところが誰も口を開くものがない。博物の教師は第一教場の屋根に烏がとまってるのを眺めている。漢学の先生は蒟蒻版をたたんだり、のばしたりしてる。山嵐はまだおれの顔をにらめている。会議というものが、こんなばかげたものなら、欠席して昼寝でもしている方がましだ。
 おれは、じれったくなったから、いちばん大いに弁じてやろうと思って、半分尻をあげかけたら、赤シャツが何か言い出したから、やめにした。見るとパイプをしまって、縞のある絹ハンケチで顔をふきながら、何か言っている。あのハンケチはきっとマドンナから巻き上げたに相違ない。男は白い麻を使うもんだ。「私も寄宿生の乱暴を聞いてはなはだ教頭として不行届であり、かつ平常の徳化が少年に及ばなかったのを深くはずるのであります。でこういうことは、何か陥欠があると起こるもので、事件その物を見るとなんだか生徒だけがわるいようであるが、その真相をきわめると責任はかえって学校にあるかもしれない。だから表面上にあらわれたところだけで厳重な制裁を加えるのは、かえって未来のためによくないかとも思われます。かつ少年血気のものであるから活気があふれて、善悪の考えはなく、半ば無意識にこんな悪戯をやることはないとも限らん。でもとより処分法は校長のお考えにあることだから、私の容喙するかぎりではないが、どうかその辺を御斟酌になって、なるべく寛大なお取り計らいを願いたいと思います」
 なるほど狸が狸なら、赤シャツも赤シャツだ。生徒があばれるのは、生徒がわるいんじゃない教師が悪いんだと公言している。気ちがいが人の頭をなぐりつけるのは、なぐられた人がわるいから、気ちがいがなぐるんだそうだ。ありがたいしあわせだ。活気にみちて困るなら運動場へ出て相撲でも取るがいい、半ば無意識に床の中ヘバッタを入れられてたまるもんか。この様子じゃ寝頸をかかれても、半ば無意識だって放免するつもりだろう。
 おれはこう考えて何か言おうかなと考えてみたが、言うなら人を驚かすようにとうとうと述べたてなくっちゃつまらない、おれの癖として、腹が立ったときに口をきくと、二言か三言で必ず行きつまってしまう。狸でも赤シャツでも人物からいうと、おれよりも下等だが、弁舌はなかなか達者だから、まずいことをしゃべって揚足を取られちゃおもしろくない。ちょっと腹案を作ってみようと、胸のなかで文章を作ってる。すると前にいた野だが突然起立したには驚いた。野だのくせに意見を述べるなんて生意気だ。野だは例のへらへら調で「実に今回のバッタ事件及び咄喊事件はわれわれ心ある職員をして、ひそかにわが校将来の前途に危惧の念を抱かしむるに足る珍事でありまして、われわれ職員たるものはこの際ふるって自ら省みて、全校の風紀を振粛しなければなりません。それでただ今校長及び教頭のお述べになったお説は、実に肯綮にあたった剴切なお考えで私は徹頭徹尾賛成いたします。どうかなるべく寛大の御処分を仰ぎたいと思います」と言った。野だの言うことは言語はあるが意味がない、漢語をのべつに陳列するぎりでわけがわからない。わかったのは徹頭徹尾賛成いたしますという言葉だけだ。
 おれは野だの言う意味はわからないけれども、なんだか非常に腹が立つたから、腹案もできないうちに起ち上がってしまった。「私は徹頭徹尾反対です……」と言ったがあとが急に出て来ない。「……そんな頓珍漢な、処分は大きらいです」とつけたら、職員が一同笑いだした。「いったい生徒が全然悪いです。どうしてもあやまらせなくっちあ、癖になります。退校さしてもかまいません。……なんだ失敬な、新しく来た教師だと思って……」と言って着席した。すると右隣りにいる博物が「生徒がわるいことも、わるいが、あまり厳重な罰などをするとかえって反動を起こしていけないでしょう。やっぱり教頭のおっしゃるとおり、寛な方に賛成します」と弱いことを言った。左隣りの漢学は穏便説に賛成と言った。歴史も教頭と同説だと言った。いまいましい、たいていのものは赤シャツ党だ。こんな連中が寄り合って学校を立てていりゃ世話はない。おれは生徒をあやまらせるか、辞職するか二つのうち一つにきめてるんだから、もし赤シャツが勝ちを制したら、さっそくうちへ帰って荷作りをする覚悟でいた。どうせ、こんな手合を弁口で屈伏させる手際はなし、させたところでいつまで御交際を願うのは、こっちで御免だ。学校にいないとすればどうなったってかまうもんか。また何か言うと笑うにちがいない。だれが言うもんかとすましていた。
 すると今までだまって聞いていた山嵐が奮然として、たち上がった。野郎また赤シャツ賛成の意を表するな、どうせ、貴様とは喧嘩だ、勝手にしろと見ていると山嵐は硝子窓をふるわせるような声で「私は教頭及びその他諸君のお説には全然不同意であります。というものはこの事件はどの点から見ても、五十名の寄宿生が新来の教師某氏を軽侮してこれを翻弄しようとした所為とよりほかには認められんのであります。教頭はその原因を教師の人物いかんにお求めになるようでありますが失礼ながらそれは失言かと思います。某氏が宿直にあたられたのは着後早々のことで、まだ生徒に接せられてから二十日に満たぬ頃であります。この短い二十日間において生徒は君の学問人物を評価し得る余地がないのであります。軽侮されべき至当な理由があって、軽侮を受けたのなら生徒の行為に斟酌を加える理由もありましょうが、なんらの原因もないのに新来の先生を愚弄するような軽薄な生徒を寛仮しては学校の威信にかかわることと思います。教育の精神は単に学問を授けるばかりではない、高尚な、正直な、武士的な元気を鼓吹すると同時に、野卑な、軽躁な、暴慢な悪風を掃蕩するにあると思います。もし反動が恐ろしいの、騒動が大きくなるのと姑息なことを言った日にはこの弊風はいつ矯正できるかしれません。かかる弊風を杜絶するためにこそわれわれはこの学校に職を奉じているので、これを見逃すくらいならはじめから教師にならん方がいいと思います。私は以上の理由で寄宿生一同を厳罰に処する上に、当該教師の面前においておおやけに謝罪の意を表せしむるのを至当の所置と心得ます」と言いながら、どんと腰をおろした。一同はだまってなんにも言わない。赤シャツはまたパイプをふきはじめた。おれはなんだか非常にうれしかった。おれの言おうと思うところをおれのかわりに山嵐がすっかり言ってくれたようなものだ。おれはこういう単純な人間だから、今までの喧嘩はまるで忘れて、大いにありがたいという顔をもって、腰をおろした山嵐の方を見たら、山嵐はいっこう知らん面をしている。
 しばらくして山嵐はまた起立した。「ただ今ちょっと失念して言い落しましたから、申します。当夜の宿直員は宿直中外出して温泉に行かれたようであるが、あれはもってのほかのことと考えます。いやしくも自分が一校の留守番を引き受けながら、とがめる者のないのをさいわいに、場所もあろうに温泉などへ入湯に行くなどというのは大きな失体である。生徒は生徒として、この点については校長からとくに責任者に御注意あらんことを希望します」
 妙なやつだ、ほめたと思ったら、あとからすぐ人の失策をあばいている。おれは何の気もなく、前の宿直が出あるいたことを知って、そんな習慣だと思って、つい温泉まで行ってしまったんだが、なるほどそう言われてみると、これはおれが悪かった。攻撃されても仕方がない。そこでおれはまた起って「私は正に宿直中に温泉に行きました。これはまったくわるい。あやまります」と言って着席したら、一同がまた笑いだした。おれが何か言いさえすれば笑う。つまらんやつらだ。貴様らこれほど自分のわるいことをおおやけにわるかったと断言できるか、できないから笑うんだろう。
 それから校長は、もうたいてい御意見もないようでありますから、よく考えた上で処分しましょうと言った。ついでだからその結果を言うと、寄宿生は一週間の禁足になった上に、おれの前へ出て謝罪をした。謝罪をしなければその時辞職して帰るところだったがなまじい、おれの言うとおりになったのでとうとうたいへんなことになってしまった。それはあとから話すが、校長はこの時会議の引き続きだと号してこんなことを言った。生徒の風儀は、教師の感化で正していかなくてはならん、その一着手として、教師はなるべく飲食店などに出入りしないことにしたい。もっとも送別会などの節は特別であるが、単独にあまり上等でない場所へ行くのはよしたい――たとえば蕎麦屋だの、団子屋だの――と言いかけたらまた一同が笑った。野だが山嵐を見て天麩羅と言って目くばせをしたが山嵐は取り合わなかった。いい気味だ。
 おれは脳がわるいから、狸の言うことなんか、よくわからないが、蕎麦屋や団子屋へ行って、中学の教師が勤まらなくっちゃ、おれみたようなくいしんぼうにやとうていできっこないと思った。それなら、それでいいから、初手から蕎麦と団子のきらいなものと注文して雇うがいい。だんまりで辞令を下げておいて、蕎麦を食うな、団子を食うなと罪なお布令を出すのは、おれのようなほかに道楽のないものにとってはたいへんな打撃だ。すると赤シャツがまた口を出した。「元来中学の教師なぞは社会の上流に位するものだからして、単に物質的の快楽ばかり求めるべきものでない。その方にふけるとつい品性にわるい影響を及ぼすようになる。しかし人間だから、何か娯楽がないと、田舎へ来て狭い土地ではとうてい暮らせるものではない。それで釣りに行くとか、文学書を読むとか、または新体詩や俳句を作るとか、なんでも高尚な精神的娯楽を求めなくってはいけない……」
 だまって聞いてると勝手な熱を吹く。沖へ行って肥料を釣りったり、ゴルキが露西亜の文学者だったり、馴染の芸者が松の木の下に立ったり、古池へ蛙が飛び込んだりするのが精神的娯楽なら、天麩羅を食って団子を呑み込むのも精神的娯楽だ。そんな下さらない娯楽を授けるより赤シャツの洗濯でもするがいい。あんまり腹が立つたから「マドンナに逢うのも精神的娯楽ですか」と聞いてやった。すると今度は誰も笑わない。妙な顔をして互いに目と目を見合わせている。赤シャツ自身は苦しそうに下を向いた。それみろ。きいたろう。ただ気の毒だったのはうらなり君で、おれが、こう言ったら蒼い顔をますます蒼くした。


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