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名作図書館 > 夏目漱石 『坊っちゃん』 >

 

 七

 おれは即夜下宿を引き払った。宿へ帰って荷物をまとめていると、女房が何か不都合でもございましたか、お腹の立つことがあるなら、言っておくれたら改めますと言う。どうも驚く。世の中にはどうして、こんな要領を得ない者ばかりそろってるんだろう。出てもらいたいんだか、いてもらいたいんだかわかりゃしない。まるで気ちがいだ。こんな者を相手に喧嘩をしたって江戸っ子の名折れだから、車屋をつれて来てさっさと出て来た。
 出たことは出たが、どこへ行くというあてもない。車屋が、どちらへ参りますと言うから、だまってついて来い、今にわかる、と言って、すたすたやって来た。面倒だから山城屋へ行こうかとも考えたが、また出なければならないから、つまり手数だ。こうしてあるいてるうちには下宿とか、何とか看板のあるうちを目付け出すだろう。そうしたら、そこが天意にかなったわが宿ということにしよう。とぐるぐる、閑静で住みよさそうな所をあるいてるうち、とうとう鍛冶屋町へ出てしまった。ここは士族屋敷で下宿屋などのある町ではないから、もっとにぎやかな方へ引き返そうかとも思ったが、ふといいことを考えついた。おれが敬愛するうらなり君はこの町内に住んでいる。うらなり君は土地の人で先祖代々の屋敷を控えているぐらいだから、この辺の事情には通じているに相違ない。あの人を尋ねて聞いたら、よさそうな下宿を教えてくれるかもしれない。さいわい一度挨拶に来て勝手は知ってるから、搜してあるく面倒はない。ここだろうと、いいかげんに見当をつけて、御免御免と二へんばかり言うと、奥から五十ぐらいな年寄が古風な紙燭をつけて、出てきた。おれは若い女もきらいではないが、年寄を見ると何だかなつかしい心持ちがする。おおかた清がすきだから、その魂が方々のおばあさんに乗り移るんだろう。これはおおかたうらなり君のおっかさんだろう、切り下げの品格のある婦人だが、よくうらなり君に似ている。まあお上がりと言うところを、ちょっとお目にかかりたいからと、主人を玄関まで呼び出して実はこれこれだが君どこか心当たりはありませんかと尋ねてみた。うらなり先生それはさぞお困りでございましょう、としばらく考えていたが、この裏町に萩野といって老人夫婦ぎりで暮らしているものがある、いつぞや座敷を明けておいても無駄だから、たしかな人があるなら貸してもいいから周旋してくれと頼んだことがある。今でも貸すかどうかわからんが、まあいっしょに行って聞いてみましょうと、親切に連れて行ってくれた。
 その夜から萩野の家の下宿人となった。驚いたのは、おれがいか銀の座敷を引き払うと、翌日から入れ違いに野だが平気な顔をして、おれのいた部屋を占領したことだ。さすがのおれもこれにはあきれた。世の中はいかさま師ばかりで、お互いに乗せっこをしているのかもしれない。いやになった。
 世間がこんなものなら、おれも負けない気で、世間並みにしなくちゃ、やりきれないわけになる。巾着切りの上前をはねなければ三度の御膳がいただけないと、ことがきまればこうして、生きてるのも考え物だ。といってぴんぴんした達者なからだで、首をくくっちゃ先祖へすまない上に、外聞が悪い。考えると物理学校などへはいって、数学なんて役にも立たない芸を覚えるよりも、六百円を資本にして牛乳屋でもはじめればよかった。そうすれば清もおれのそばを離れずにすむし、おれも遠くからばあさんのことを心配しずに暮らされる。いっしょにいるうちは、そうでもなかったが、こうして田舎へ来てみると清はやっぱり善人だ。あんな気立てのいい女は日本中さがしてあるいたって滅多にはない。ばあさん、おれのたつときに、少々風邪を引いていたが今頃ほどうしてるかしらん。せんだっての手紙を見たらさぞ喜んだろう。それにしても、もう返事がきそうなものだが――おれはこんなことばかり考えて二、三日暮らしていた。
 気になるから、宿のおばあさんに、東京から手紙は来ませんかとときどき尋ねてみるが、聞くたんびになんにも参りませんと気の毒そうな顔をする。ここの夫婦はいか銀とは違って、もとが士族だけに双方とも上品だ。じいさんが夜になると、変な声を出して謡をうたうには閉口するが、いか銀のようにお茶を入れましょうとむやみに出て来ないから大きに楽だ。おばあさんはときどき部屋へ来ていろいろな話をする。どうして奥さんをお連れなさって、いっしょにおいでなんだのぞなもしなどと質問をする。奥さんがあるように見えますかね。可哀想にこれでもまだ二十四ですぜと言ったらそれでも、あなた二十四で奥さんがおありなさるのはあたりまえぞなもしと冒頭を置いて、どこの誰さんは二十でお嫁をおもらいたの、どこのなんとかさんは二十二で子供を二人お持ちたのと、なんでも例を半ダースばかりあげて反駁を試みたには恐れ入った。それじゃ僕も二十四でお嫁をおもらいるけれ、世話をしておくれんかなと田舎言葉をまねて頼んでみたら、おばあさん正直に本当かなもしと聞いた。
「本当の本当のって僕あ、嫁がもらいたくって仕方がないんだ」
「そうじゃろうがな、もし。若いうちは誰もそんなものじゃけれ」
この挨拶には痛み入って返事ができなかった。
「しかし先生はもう、お嫁がおありなさるにきまっとらい。私はちゃんと、もう、ねらんどるぞなもし」
「へえ、活眼だね。どうして、ねらんどるんですか」
「どうしててて。東京から便りはないか、便りはないかてて、毎日便りを待ちこがれておいでるじゃないかなもし」
「こいつあ驚いた。たいへんな活眼だ」
「あたりましたろうがな、もし」
「そうですね。あたったかもしれませんよ」
「しかし今時のおなごは、昔と違うて油断ができんけれ、お気をおつけたがええぞなもし」
「なんですかい、僕の奥さんが東京で間男でもこしらえていますかい」
「いいえ、あなたの奥さんはたしかじゃけれど……」
「それで、やっと安心した。それじゃ何を気をつけるんですい」
「あなたのはたしか――あなたのはたしかじゃが――」
「どこにふたしかなのがいますかね」
「ここらにもだいぶおります。先生、あの遠山のお嬢さんを御存知かなもし」
「いいえ、知りませんね」
「まだ御存知ないかなもし。ここらであなた一番の別嬪さんじゃがなもし。あまり別嬪さんじゃけれ、学校の先生方はみんなマドンナマドンナと言うといでるぞなもし。まだお聞きんのかなもし」
「うん、マドンナですか。僕あ芸者の名かと思った」
「いいえ、あなた。マドンナというと唐人の言葉で、別嬪さんのことじゃろうがなもし」
「そうかもしれないね。驚いた」
「おおかた画学の先生がおつけた名ぞなもし」
「野だがつけたんですかい」
「いいえ、あの吉川先生がおつけたのじゃがなもし」
「そのマドンナがふたしかなんですかい」
「そのマドンナさんがふたしかなマドンナさんでな、もし」
「やっかいだね。渾名の付いてる女にや昔から碌なものはいませんからね。そうかも知れませんよ」
「本当にそうじゃなもし。鬼神のお松じゃの、妲妃のお百じゃのてて怖い女がおりましたなもし」
「マドンナもその同類なんですかね」
「そのマドンナさんがなもし、あなた。そらあの、あなたをここへ世話をしておくれた古賀先生なもし――あの方の所へお嫁に行く約束ができていたのじゃがなもし――」
「へえ、不思議なもんですね。あのうらなり君が、そんな艶福のある男とは思わなかった。人は見かけによらないものだな。ちっと気をつけよう」
「ところが、去年あすこのおとうさんが、お亡くなりて、――それまではお金もあるし、銀行の株も持っておいでるし、万事都合がよかったのじゃが――それからというものは、どういうものか急に暮らし向きが思わしくなくなって――つまり古賀さんがあまりお人がよすぎるけれ、おだまされたんぞなもし。それや、これやでお輿入れも延びているところへ、あの教頭さんがおいでて、ぜひ御嫁にほしいとお言いるのじゃがなもし」
「あの赤シャツがですか。ひどいやつだ。どうもあのシャツはただのシャツじゃないと思ってた。それから?」
「人を頼んでかけおうておみると、遠山さんでも古賀さんに義理があるから、すぐには返事はできかねて――まあよう考えてみようぐらいの挨拶をおしたのじゃがなもし。すると赤シャツさんが、手づるを求めて遠山さんの方へ出入りをおしるようになって、とうとうあなた、お嬢さんを手なづけておしまいたのじゃがなもし。赤シャツさんも赤シャツさんじゃが、お嬢さんもお嬢さんじゃてて、みんなが悪く言いますのよ。いったん古賀さんへ嫁に行くてて承知をしときながら、いまさら学士さんがおいでたけれ、その方に替えよてて、それじゃ今日様へすむまいがなもし、あなた」
「まったくすまないね。今日様どころか明日様にも明後日様にも、いつまでいったってすみっこありませんね」
「それで古賀さんにお気の毒じゃてて、お友達の堀田さんが教頭の所へ意見をしにお行きたら、赤シャツさんが、あしは約束のあるものを横取りするつもりはない。破約になればもらうかもしれんが、今のところは遠山家とただ交際をしているばかりじゃ、遠山家と交際をするにはべつだん古賀さんにすまんこともなかろうとお言いるけれ、堀田さんも仕方がなしにお戻りたそうな。赤シャツさんと堀田さんは、それ以来折合がわるいと言う評判ぞなもし」
「よくいろいろなことを知ってますね。どうして、そんな詳しいことがわかるんですか。感心しちまった」
「狭いけれなんでもわかりますぞなもし」
わかりすぎて困るぐらいだ。この様子じゃおれの天麩羅や団子のことも知ってるかもしれない。やっかいな所だ。しかしおかげさまでマドンナの意味もわかるし、山嵐と赤シャツの関係もわかるし大いに後学になった。ただ困るのはどっちが悪者だか判然しない。おれのような単純なものには白とか黒とかかたづけてもらわないと、どっちへ味方をしていいかわからない。
「赤シャツと山嵐たあ、どっちがいい人ですかね」
「山嵐て何ぞなもし」
「山嵐と言うのは堀田のことですよ」
「そりゃ強いことは堀田さんの方が強そうじゃけれど、しかし赤シャツさんは学士さんじゃけれ、働きはある方ぞな、もし。それから優しいことも赤シャツさんの方が優しいが、生徒の評判は堀田さんの方がええというぞなもし」
「つまりどっちがいいんですかね」
「つまり月給の多い方がえらいのじゃろうがなもし」
これじゃ聞いたって仕方がないから、やめにした。それから二、三日して学校から帰るとおばあさんがにこにこして、へえおまちどおさま。やっと参りました。と一本の手紙を持って来てゆっくり御覧と言って出て行った。取り上げて見ると清からの便りだ。符箋が二、三枚ついてるから、よく調べると、山城屋から、いか銀の方へ回して、いか銀から、萩野へ回って来たのである。その上山城屋では一週間ばかり逗留している。宿屋だけに手紙まで泊めるつもりなんだろう。開いて見ると、非常に長いもんだ。坊っちゃんの手紙をいただいてから、すぐ返事をかこうと思ったが、あいにく風邪を引いて一週間ばかり寝ていたものだから、つい遅くなってすまない。その上今時のお嬢さんのように読み書きが達者でないものだから、こんなまずい字でも、かくのによっぽど骨が折れる。甥に代筆を頼もうと思ったが、せっかくあげるのに自分でかかなくっちゃ、坊っちゃんにすまないと思って、わざわざ下書きを一ぺんして、それから清書をした。清書をするには二日ですんだが、下書きをするには四日かかった。読みにくいかもしれないが、これでも一生懸命にかいたのだから、どうぞしまいまで読んでくれ。という冒頭で四尺ばかりなにやらかやらしたためてある。なるほど読みにくい。字がまずいばかりではない、たいてい平仮名だから、どこで切れて、どこで始まるのだか句読をつけるのによっぽど骨が折れる。おれはせっかちな性分だから、こんな長くて、わかりにくい手紙は五円やるから読んでくれと頼まれても断わるのだが、この時ばかりはまじめになって、はじめからしまいまで読み通した。読み通したことは事実だが、読む方に骨が折れて、意味がつながらないから、また頭から読み直してみた。部屋のなかは少し暗くなって、前の時より見にくくなったから、とうとう椽鼻へ出て腰をかけながらていねいに拝見した。すると初秋の風が芭蕉の葉を動かして、素肌に吹きつけた帰りに、読みかけた手紙を庭の方へなびかしたから、しまいぎわには四尺あまりの半切れがさらりさらりと鳴って、手を放すと、向こうの生垣まで飛んで行きそうだ。おれはそんなことにはかまっていられない。坊っちゃんは竹を割ったような気性だが、ただ癇癪が強すぎてそれが心配になる。――ほかの人にむやみにあだ名なんか、つけるのは人に恨まれるもとになるから、やたらに使っちゃいけない、もしつけたら、清だけに手紙で知らせろ。――田舎者は人がわるいそうだから、気をつけてひどい目にあわないようにしろ。――気候だって東京より不順にきまってるから、寝冷えをして風邪を引いてはいけない。坊っちゃんの手紙はあまり短すぎて、様子がよくわからないから、この次にはせめてこの手紙の半分ぐらいの長さのを書いてくれ。――宿屋へ茶代を五円やるのはいいが、あとで困りゃしないか、田舎へ行って頼りになるはお金ばかりだから、なるべく倹約して、万一の時にさしつかえないようにしなくっちゃいけない。――お小遣いがなくて困るかもしれないから、為替で十円あげる。――せんだって坊っちゃんからもらった五十円を、坊っちゃんが、東京へ帰って、うちを持つ時の足しにと思って、郵便局へ預けておいたが、この十円を引いてもまだ四十円あるから大丈夫だ。――なるほど女というものは細かいものだ。
おれが椽鼻で清の手紙をひらつかせながら、考え込んでいると、しきりの襖をあけて、萩野のおばあさんが晩めしを持ってきた。まだ見ておいでるのかなもし。えっぽど長いお手紙じゃなもし、と言ったから、ええ大事な手紙だから風に吹かしては見、吹かしては見るんだと、自分でも要領を得ない返事をして膳についた。見ると今夜も薩摩芋の煮つけだ。ここのうちは、いか銀よりもていねいで、親切で、しかも上品だが、惜しいことに食い物がまずい。昨日も芋、一昨日も芋で今夜も芋だ。おれは芋は大好きだと明言したには相違ないが、こうたてつづけに芋を食わされては命がつづかない。うらなり君を笑うどころか、おれ自身が遠からぬうちに、芋のうらなり先生になっちまう。清ならこんな時に、おれの好きな鮪のさし身か、蒲鉾のつけ焼を食わせるんだが、貧乏士族のけちん坊ときちゃ仕方がない。どう考えても清といっしょでなくっちゃあ駄目だ。もしあの学校に長くでもいるもようなら、東京からよびよせてやろう。天麩羅蕎麦を食っちゃならない、団子を食っちゃならない、それで下宿にいて芋ばかり食って黄色くなっていろなんて、教育者はつらいものだ。禅宗坊主だって、これよりは口に栄耀をさせているだろう。――おれは一皿の芋をたいらげて、机のひきだしから生卵を二つ出して、茶碗の縁でたたき割って、ようやくしのいだ。生卵ででも栄養をとらなくっちゃあ一週二十一時間の授業ができるものか。
 今日は清の手紙で湯に行く時間が遅くなった。しかし毎日行きつけたのを一日でも欠かすのは心持ちがわるい。汽車にでも乗って出かけようと、例の赤手拭をぶら下げて停車場まで来ると二三分前に発車したばかりで、少々待たなければならぬ。ベンチへ腰をかけて、敷島を吹かしていると、偶然にもうらなり君がやって来た。おれはさっきの話を聞いてから、うらなり君がなおさら気の毒になった。ふだんから天地の間に居候をしているように、小さく構えているのがいかにも憐れにみえたが、今夜は憐れどころの騒ぎではない。できるならば月給を倍にして、遠山のお嬢さんと明日から結婚さして、一カ月ばかり東京へでも遊びにやってやりたい気がした矢先だから。や、お湯ですか、さあ、こっちへおかけなさいと威勢よく席を譲ると、うらなり君は恐れ入った体裁で、いえ構うておくれなさるな、と遠慮だかなんだかやっぱり立ってる。少し待たなくっちゃ出ません、くたびれますからおかけなさいとまた勧めてみた。実はどうかして、そばへかけてもらいたかったぐらいに気の毒でたまらない。それではおじゃまをいたしましょうとようやくおれの言うことを聞いてくれた。世の中には野だみたように生意気な、出ないですむ所へ必ず顔を出すやつもいる。山嵐のようにおれがいなくっちゃ日本が困るだろうというような面を肩の上へのせてるやつもいる。そうかと思うと、赤シャツのようにコスメチックと色男の問屋をもって自ら任じているのもある。教育が生きてフロックコートを着ればおれになるんだと言わぬばかりの狸もいる。皆々それ相応にいばってるんだが、このうらなり先生のようにあれどもなきがごとく、人質に取られた人形のようにおとなしくしているのは見たことがない。顔はふくれているが、こんな結構な男を捨てて赤シャツになびくなんて、マドンナもよっぽど気のしれないおきゃんだ。赤シャツが何ダース寄ったって、これほど立派な旦那様ができるもんか。
「あなたはどっか悪いんじゃありませんか。だいぶたいぎそうに見えますが……」
「いえ、べつだんこれと言う持病もないですが……」
「そりゃ結構です。からだが悪いと人間も駄目ですね」
「あなたはだいぶ御丈夫のようですな」
「ええやせても病気はしません。病気なんてものあ大きらいですから」
うらなり君は、おれの言葉を聞いてにやにやと笑った。
 ところへ入口で若々しい女の笑い声が聞えたから、何心なく振り返ってみるとえらいやつが来た。色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人と、四十五、六の奥さんとが並んで切符を売る窓の前に立っている。おれは美人の形容などができる男でないからなんにも言えないがまったく美人に相違ない。なんだか水晶の珠を香水であっためて、掌へ握ってみたような心持ちがした。年寄の方が背は低い。しかし顔はよく似ているから親子だろう。おれは、や、来たなと思うとたんに、うらなり君のことはすっかり忘れて、若い女の方ばかり見ていた。すると、うらなり君が突然おれの隣りから、立ち上がって、そろそろ女の方へあるきだしたんで、少し驚いた。マドンナじゃないかと思った。三人は切符所の前で軽く挨拶している。遠いから何を言ってるのかわからない。
 停車場の時計を見るともう五分で発車だ。早く汽車がくればいいがなと、話し相手がいなくなったので待ち遠しく思っていると、また一人あわてて場内へかけ込んで来たものがある。見れば赤シャツだ。なんだかべらべら然たる着物へ縮緬の帯をだらしなく巻きつけて、例のとおり金鎖をぶらつかしている。あの金鎖は贋物である。赤シャツは誰も知るまいと思って、見せびらかしているが、おれはちゃんと知ってる。赤シャツはかけ込んだなり、何かきょろきょろしていたが、切符売下所の前に話している三人へ慇懃にお辞儀をして、何か二こと、三こと、言ったと思ったら、急にこっちへ向いて、例のごとく猫足にあるいて来て、や君も湯ですか、僕は乗りおくれやしないかと思って心配して急いで来たら、まだ三、四分ある。あの時計はたしかしらんと、自分の金側を出して、二分ほどちがってると言いながら、おれのそばへ腰をおろした。女の方はちっとも見返らないで杖の上へあごをのせて、正面ばかり眺めている。年寄の婦人はときどき赤シャツを見るが、若い方は横を向いたままである。いよいよマドンナにちがいない。
 やがて、ピューと汽笛が鳴って、車がつく。待ち合わせた連中はぞろぞろわれがちに乗り込む。赤シャツはいの一号に上等へ飛び込んだ。上等へ乗ったっていばれるどころではない。住田まで上等が五銭で下等が三銭だから、わずか二銭違いで上下の区別がつく。こういうおれでさえ上等を奮発して白切符を握ってるんでもわかる。もっとも田舎者はけちだから、たった二銭の出入りでもすこぶる苦になるとみえて、たいていは下等へ乗る。赤シャツのあとからマドンナとマドンナのお袋が上等へはいり込んだ。うらなり君は活版で押したように下等ばかりへ乗る男だ。先生、下等の車室の入口へ立って、なんだか躊躇のていであったが、おれの顔を見るやいなや思い切って、飛び込んでしまった。おれはこの時なんとなく気の毒でたまらなかったから、うらなり君のあとから、すぐ同じ車室へ乗り込んだ。上等の切符で下等へ乗るに不都合はなかろう。
 温泉へ着いて、三階から、浴衣のなりで湯壷へ下りてみたら、またうらなり君に会った。おれは会議やなんかでいざときまると、咽喉がふさがってしゃべれない男だが、ふだんはずいぶん弁ずる方だから、いろいろ湯壷のなかでうらなり君に話しかけてみた。なんだか憐れぽくってたまらない。こんな時に一口でも先方の心を慰めてやるのは、江戸っ子の義務だと思ってる。ところがあいにくうらなり君の方では、うまい具合にこっちの調子に乗ってくれない。何を言っても、えとかいえとかぎりで、しかもそのえといえがだいぶ面倒らしいので、しまいにはとうとう切り上げて、こっちから御免こうむった。
湯の中では赤シャツに会わなかった。もっとも風呂の数はたくさんあるのだから、同じ汽車で着いても、同じ湯壷で会うとはきまっていない。べつだん不思議にも思わなかった。風呂を出て見るといい月だ。町内の両側に柳が植わって、柳の枝がまるい影を往来の中へ落している。少し散歩でもしよう。北へ登って町のはずれへ出ると、左に大きな門があって、門の突き当たりがお寺で、左右が妓楼である。山門のなかに遊廓があるなんて、前代未聞の現象だ。ちょっとはいってみたいが、また狸から会議の時にやられるかもしれないから、やめて素通りにした。門の並びに黒い暖簾をかけた、小さな格子窓の平屋はおれが団子を食って、しくじった所だ。丸提灯に汁粉、お雑煮とかいたのがぶらさがって、提灯の火が、軒端に近い一本の柳の幹を照らしている。食いたいなと思ったが我慢して通り過ぎた。
 食いたい団子の食えないのは情けない。しかし自分の許嫁が他人に心を移したのは、なお情けないだろう。うらなり君のことを思うと、団子はおろか、三日ぐらい断食しても不平はこぼせないわけだ。本当に人間ほどあてにならないものはない。あの顔を見ると、どうしたって、そんな不人情なことをしそうには思えないんだが――うつくしい人が不人情で、冬瓜の水膨れのような古賀さんが善良な君子なのだから、油断ができない。淡白だと思った山嵐は生徒を扇動したと言うし。生徒を扇動したのかと思うと、生徒の処分を校長にせまるし。厭味で練りかためたような赤シャツが存外親切で、おれによそながら注意をしてくれるかと思うと、マドンナをごまかしたり。ごまかしたのかと思うと、古賀の方が破談にならなければ結婚は望まないんだと言うし。いか銀が難癖をつけて、おれを追い出すかと思うと、すぐ野だ公が入れ替ったり――どう考えてもあてにならない。こんなことを清にかいてやったらさだめて驚くことだろう。箱根の向こうだから化物が寄り合ってるんだと言うかもしれない。
おれは、性来かまわない性分だから、どんなことでも苦にしないで今日までしのいできたのだが、ここへ来てからまだ一カ月たつか、たたないうちに、急に世のなかを物騒に思いだした。べつだん際だった大事件にも出会わないのに、もう五つ六つ年を取ったような気がする。早く切り上げて東京へ帰るのが一番よかろう。などとそれからそれへ考えて、いつか石橋を渡って野芹川の堤へ出た。川というとえらそうだが実は一間ぐらいな、ちょろちょろした流れで、土手に沿うて十二丁ほど下ると相生村へ出る。村には観音様がある。
 温泉の町を振り返ると、赤い灯が、月の光の中にかがやいている。太鼓が鳴るのは遊廓に相違ない。川の流れは浅いけれども早いから、神経質の水のようにやたらに光る。ぶらぶら土手の上をあるきながら、約三丁も来たと思ったら、向こうに人影が見え出した。月に透かして見ると影は二つある。温泉へ来て村へ帰る若い衆かもしれない。それにしては唄もうたわない。存外静かだ。
 だんだんあるいて行くと、おれの方が早足だと見えて、二つの影法師が、しだいに大きくなる。一人は女らしい。おれの足音を聞きつけて、十間ぐらいの距離にせまった時、男がたちまち振り向いた。月は後ろからさしている。その時おれは男の様子を見て、はてなと思った。男と女はまた元のとおりにあるきだした。おれは考えがあるから、急に全速力で追っかけた。先方はなんの気もつかずに最初のとおり、ゆるゆる歩を移している。今は話し声も手に取るように聞える。土手の幅は六尺ぐらいだから、並んで行けば三人がようやくだ。おれは苦もなく後ろから追いついて、男の袖をすり抜けざま、二足前へ出した踵をぐるりと返して男の顔をのぞきこんだ。月は正面からおれの五分刈の頭からあごの辺りまで、会釈もなく照らす。男はあっと小声に言ったが、急に横を向いて、もう帰ろうと女をうながすが早いか、温泉の町の方へ引き返した。
 赤シャツはずぶとくてごまかすつもりか、気が弱くて名乗りそこなったのかしら。所が狭くて困ってるのは、おればかりではなかった。

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