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忘れじの行く末までは ― 「忘れじ」の部分は、夫、藤原道隆の言葉であり、主語は一人称であるため、「じ」は、打消意志の助動詞。、「〜ないつもりだ」の意。「忘れじ」で、「私(道隆)は、決してあなた(貴子)を忘れないつもりだ」の意。「の」は、連体修飾格の格助詞で、「…という…」。「行く末」は、未来・将来。「まで」は、限度を表す副助詞。 |
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かたければ ― 「動詞の已然形+接続助詞“ば”」で、順接の確定条件。「(〜は)困難だから」の意。この場合、道隆の言葉を信用することが難しいことを表す。 |
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今日を限りの命ともがな ― 「今日」は、道隆が「忘れじ」と言った日。「限り」は、最後の意。「と」は、引用の格助詞。「もがな」は、願望の終助詞で、「〜であってほしい」の意。『新古今集』の詞書に、「中関白通ひそめ侍りけるころ」とあり、道隆が儀同三司母の屋敷に通いはじめたころ、すなわち、新婚当初に詠まれた歌であることがわかる。 |
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藤原道隆は、この歌が詠まれた当時、10代後半であって官位は低く、父の兼家が、伯父の関白兼通から疎まれていたため、必ずしも順風満帆という状況ではなかった。その後、兼通の死去により兼家が政界の中枢に復帰すると、道隆もまた急激に官位を進めた。道隆が関白になると、定子は一条天皇の中宮に、嫡男伊周(儀同三司)は10代でありながら公卿に列するなど、貴子の産んだ子供たちは、朝廷内で重要な役割をはたすこととなった。しかし、道隆が43歳の若さで亡くなり、伊周が叔父道長との政争に敗れ、隆家が花山法皇を襲撃するという暴挙に及んだことにより、兄弟そろって地方に左遷された。こうした混乱の最中、貴子は伊周に同行することを求めたが許されず、失意のうちに病を得て亡くなった。 |